日中線は、栃木県今市市と山形県米沢市を結ぶ東北縦貫鉄道「野岩線」として計画され明治25年から建設運動が始まった。その努力がみのり、昭和11年1月喜多方と熱塩間11.6㏎(途中の駅は会津村松駅、上三宮駅、加納駅)が日中線として着工され建設費72万円余を費し、昭和13年8月18日住民の歓喜の声に迎えられ開通した。
開業当初はC12形蒸気機関車の牽く列車が1日6往復あったが、漸次少なくなり昭和23年からは朝一往復、夕方と夜の計3往復の混合列車(客・貨列車)に短縮された。
昭和45年からはC11形蒸気機関車が入線し、C12形蒸気機関車は日中線から姿を消した。終点の熱塩駅には最初の内は転車台があったがその後人員削減のためか転車台が撤去されたため喜多方発はバック運転になり、は正常運転で喜多方に戻るという変則運転だった。バッグでのんびり走って行く姿はどこかユーモラスで鉄道ファンの絶好の被写体だった。またその鈍い走りに列車と競争して走る者もおり、その鈍さから「日中べこ」などとあだ名をつけられたが、沿線の住民にとっては、通勤、通学、買い物にと大変貴重な足だった。
 開通当時の主な目的は、熱塩にあるマンガンや金、加納にある銀や石膏といた、戦争のための物資輸送だったという。そのため、この路線は急行列車が走れない簡易路線であった。
喜多方駅には機関車の向きを変える転車台や給水塔などがあり、またその近くには加納駅から石灰などを運ぶ鉄索があった。
その日中線も、戦後昭和30年代後半頃から車社会が発達し、日中線の利用客も減る一方、そして昭和49年10月には「さよならSL」が運行され多くの鉄道ファンに惜しまれながら、本州最後のSLの運行が終了した。
そしてSLからデイーゼル機関車へと変わったが赤字は膨らむばかり、昭和45年2月、国鉄は国鉄財政赤字再建10ヵ年計画を発表。国鉄東北支社は、これに呼応して日中線を廃止したい旨を表明した。同年3月、喜多方地区期成同盟会は直ちに日中線の廃止反対並びに野岩線の早期着工を国会議員、運輸省等に陳情したが、情勢の好転は望まれず55年12月に至り「日本国有鉄道経営再建促進特別法」が公布され、日中線をバス等の転換対象路線として指定する。
日中線の第一次特定地方線の指定にともない、「日中線特定地方交通対策協議会」が昭和56年10月21日に発足し協議されましたが、代替バスへの転換にやむ得なく同意し、昭和59年3月31日で廃止された。
 
喜多方駅にあった給水塔
 
転換交付金を充当し、日中線跡地は線路の撤去、駅舎の撤去、電気関係施設等の撤去、さらに道床のかきならしなどの他、子孫代々へ伝えるため、熱塩駅舎を改装し、日中線記念館として、残した。
 また、日中線建設に努力された先人の偉業をたたえ、永く後世に伝えるため、跡地の一部を緑道公園として残すこととし、59年から2ヵ年計画で整備を行いました。
 そして、昭和63年日中線跡に延長1030メートルの区間にSL広場をはじめ花の散歩道を整備し、しだれ桜を植樹し、市民の憩いの場として完成しました。
 
 
 喜多方駅の元熱塩行きのホームにある、駅名標  熱塩駅の保存してある当時走っていた客車
 参考文献 喜多方市史7 現代

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